2008年07月22日

オーケストラ[グレゴリオ聖歌]

オーケストラ!グレゴリオ聖歌





グレゴリオ聖歌(ぐれごりおせいか)は、西方教会の単旋律聖歌(プレインチャント)の基軸をなす聖歌で、カトリック教会|ローマ・カトリック教会で用いられる、モノフォニー|単旋律、無伴奏の宗教音楽である。主に9世紀から10世紀にかけて、西欧から中欧のフランク人の居住地域で発展し、後に改変を受けながら伝承した。教皇グレゴリウス1世 (ローマ教皇)|グレゴリウス1世が編纂したと広く信じられたが、現在ではカロリング朝にローマとガリアの聖歌を統合したものと考えられている。グレゴリオ聖歌の発展とともに教会旋法が成立し、グレゴリオ聖歌は8つのモード (旋法)|旋法で体系づけられることとなった。旋律の特徴としては、特徴的なインキピット(冒頭句)や終止(カデンツ)、メロディの中心となる朗誦音(リサイティング・トーン)の使用\xA1
!"$^$?%;%s%H%K%<%$%7%g%s$H8F$P$l$k4{B8$N%a%m%G%#$rE>MQ$9$k5;K!$K$h$C$FH/E8$7$?2;3Z8lK!$,$"$2$i$l$k!#2;3,$O==Fs2;2;3,$G$O$J$/!"%X%/%5%3%k%I$H8F$P$l$kO;2;2;3,$,;HMQ$5$l!"8=Be$NA42;3,$K4^$^$l$k2;$H!"8=:_$NJQ%m$K$"$?$k2;$r;HMQ$9$k!#グレゴリオ聖歌の旋律はネウマ譜を用いて記譜法|記譜され、このネウマ譜が16世紀に現代でも用いられる五線譜に発展した記譜法の展開については Dolmetsch online, accessed 4 July 2006。またグレゴリオ聖歌はポリフォニーの発展に決定的な役割を果たした。歴史的には、教会では男性および少年合唱によって、また修道会では修道僧、修道女によってグレゴリオ聖歌は歌われてきた。グレゴリオ聖歌は、西方教会の各地固有の聖押
N$r6nC`$
7!"%m!<%^%+%H%j%C%/652q$N8x<0$J@;2N$H$7$F!"%m!<%^E5Ni$K4p$E$/%_%5$d=$F;1!$N@;L3F|2]$G2N$o$l$k$h$&$K$J$C$?!#$7$+$7!"1960年代の第2バチカン公会議以降は現地語による典礼が奨められるようになったことを受けて、グレゴリオ聖歌の歌唱は義務ではなくなり、典礼音楽としてのグレゴリオ聖歌は次第に各国語の聖歌にとってかわられている。ただし、ローマ教皇庁の見解としては、依然としてグレゴリオ聖歌が典礼にもっともふさわしい音楽形態である第2バチカン公会議制定の典礼憲章。 ''Catholic Encyclopedia'' にもこの問題は詳しく述べられている plainchant article。この見解は、ァ
Y%M%G%#%/%H16世 (ローマ教皇)|にも支持される、教皇庁の正式見解である Catholic World News 28 June 2006。共に最終アクセス 5 July 2006。
。20世紀には、音楽学の対象としてグレゴリオ聖歌の研究が進み、典礼を離れた音楽としても人気を得た。



歴史





[ 初期聖歌の展開 ]


無伴奏歌唱は、教会の最初期からキリスト教の典礼に組み込まれていた。1990年代半ばまでは、古代イスラエルの詩篇歌唱が初期キリスト教の典礼および聖歌に強く影響を与えたと考えられていたが、今日では、最初期のキリスト教の聖歌には詩篇をテキストとするものがなく、また紀元70年のイスラエル包囲以後数世紀にわたってシナゴーグで詩篇が歌われていなかったことから、この見解は研究者の間では否定されているDavid Hiley, ''Western Plainchant'' pp. 484-5. 。ただし、初期キリスト教の典礼がユダヤ教の伝統を受け継ぎ、それが後まで聖歌のなかに痕跡を留めていることは事実である。例えば聖務日課はユダヤ教の祈りの時間に起源をもつものである。また、アーメンやアレルヤはヘブライ語であり、「サンクトゥス」の三唱はアミダー(立祷)でおこなわれるケドゥーシャ(三聖唱・「神は聖なるかな」と3度唱える)を受け継ぐものであるWilli Apel, ''Gregorian Chant'' p. 34.。新約聖書には、最後の晩餐で賛美歌を歌ったことが言及されている。すなわち「賛美の歌を歌ってから、彼らはオリーブ山へと出て\xA1
9T$C$?!W「マタイによる福音書26.30。『電網聖書』http://www.cozoh.org/denmo/Matthew.htm#C26V30とある。また教皇クレメンス1世 (ローマ教皇)|クレメンス1世やテルトゥリアヌス、アタナシオス、エゲリアなどの記録にも、初期キリスト教で賛美歌が歌われていたことがみえるがApel, ''Gregorian Chant'' p. 74.、その言及は詩的もしくはあいまいなもので、この時代の音楽が実際にどのようなものだったかはほとんどわからないHiley, ''Western Plainchant'' pp. 484-7 および James McKinnon, ''Antiquity and the Middle Ages'' p. 72.。3世紀成立のギリシア語のパピルス写本オクシュリンコス賛美歌には、音楽的な記譜があるが、この賛美歌とキリスト教の聖歌の伝統との関係は明らかでないMcKinnon, James W.: "Christian Church, music of the early", Grove Music Online ed. L. Macy (最終アクセス 11 July 2006), (subscription access)。一方、後にローマ邸
5Ni$GMQ$$$i$l$k$3$H$K$J$k2;3ZE*MWAG$O!"3世紀には出現して\xA1
$$$k!#BP
N)659D%R%C%]%j%e%H%9$KCx5!Y$G$O!"%"%l%k%d$r7+JV$7>'$($k%O%l%k!J;mJS$K4p$E$/%f%@%d65$NO/kV!K$r!"=i4|%-%j%9%H65$N0&;A!J%"%,%Z!<;A!K$H7k$S$D$1$F$$$kHiley, ''Western Plainchant'' p. 486. 。定時課に歌われる聖務日課の聖歌は、4世紀初頭、聖アントニウスに従って砂漠で修業を行った修道僧たちが始めた、毎週150の詩篇を一巡して歌う連誦に起源を持つ。375年頃には、東方のキリスト教ではアンティフォナ的な賛美歌が流行し、386年にアンブロジウスによってこれが西方にもたらされた。5世紀から9世紀の間に聖歌がどのように展開したかについては、史料が乏しく、学説は定まっていない。410年頃には、アウグスティヌスがミサで昇階曲をレスポンソリウムで歌っていることを記している。678年ごろには、ヨーク (イングランド)|ヨークにてローマ聖歌が教えられていたJames McKinnon, ''Antiquity and the Middle Ages'' p. 320.。この頃の西方教会の地域では、ブリテン諸島(ケルト聖歌)、イベリア半島(モザラベ聖歌)、ガリア(ガリ\xA1
%"@;2N!K!"%$%?%j%"H>Eg!J%m!<%^@;2N!"8E%m!<%^@;2N!"%"%s%V%m%8%*@;2N!"%Y%M%t%'%s%H@;2N!K などで各地に固有の聖歌が発展した。これらの伝統は、西ローマ帝国崩壊後に、5世紀にあったと考えられている通年の聖歌集から発展したものかもしれない。


[ 新しい聖歌の成立 ]


を表象する鳩がグレゴリウス1世に霊感を与え、グレゴリオ聖歌を書き取らせた。

グレゴリオ聖歌のレパートリーは、ローマ典礼でつかうために編成されたものである。音楽学者ジェームス・マッキノンによれば、ローマ式ミサの典礼次第の基礎は7世紀末の短い期間にまとめられたものである。一方、Andreas Pfisterer や Peter Jeffery などの他の研究者は、レパートリーの最古の部分はより古い時期に起源を持つものだと主張している。研究者の論点は、聖歌旋律の主要部分が7世紀以前のローマに起源を持つものなのか、あるいは8世紀から9世紀初頭のフランク王国に起源を持つものなのかという点である。伝統的な通説を支持する人々は、590年から604年に在位した教皇グレゴリウス1世 (ローマ教皇)|グレゴリウス1世の果たした役割の大きさを指摘しているH. Bewerung, "Gregorian chant," ''The Catholic Encyclopedia, Vol. VI'', 最終アクセス 23 August 2006 など。しかし、ウィ\xA1
%j!グレゴリオ聖歌は750年頃以降にカロリング朝フランスにおいて、ローマ聖歌とガリア聖歌を統合、発展させたものと考えられている。教皇ステファヌス3世 (ローマ教皇)|ステファヌス3世は752年から3年にかけてガリアを訪れた際に、ローマ聖歌を用いてミサをたてた。カール大帝によれば、その父ピピン3世は、ローマとの関係を強化するために、ガリア典礼を廃止してローマ式に換えたというApel, ''Gregorian Chant'' p. 79.。785年から6年には、カール大帝の要望に応え、教皇ハドリアヌス1世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス1世が、ローマ聖歌を含んだ聖礼典式書をカロリング朝宮廷へ送っている。その後、このローマ聖歌は現地のガリア聖歌の影響を受けて改変されつつ記譜され、さらに8つの教会旋法へと整えられていく。このフランク・ローマ折衷のカロリング聖歌は、教会暦上不足ぁ
7$F$$$?$b$N$r?7$7$$@;2N$GJd$$$J$,$i!"!Vグレゴリオ聖歌」として完成することになる。グレゴリウスの名を冠した理由としては、当時フランク王国に多く招聘されていたイングランドの聖職者がアングロ=サクソン教会の創立者であるグレゴリウス1世をたたえたものであるという説や、当時の教皇グレゴリウス2世 (ローマ教皇)|グレゴリウス2世(715-731 在位)を讃えてこのように名付けられたものが、後に、彼よりはるかに有名な大聖グレゴリウスに作を帰する伝説が生まれたとする説McKinnon, ''Antiquity and the Middle Ages'' p. 114.がある。この伝説では、グレゴリウスは聖霊の象徴である鳩に霊感をうけて聖歌を書き取ったとされ、グレゴリオ聖歌に聖性と権威を与えることとなった。グレゴリオ聖歌がグレゴリウス1世の手になるという言説は、今日に到るまで広く信じられているWilson, ''Music of the Middle Ages''!
p. 13.



[ 普及と覇権 ]


グレゴリオ聖歌は、瞬く間にヨーロッパ全土に驚くほど均質な様式を保ちながら普及した。カール大帝は神聖ローマ皇帝となると、聖職者にグレゴリオ聖歌を用いなければ死罪とすると脅迫し、積極的に帝国内にグレゴリオ聖歌を広めて、聖権力および世俗権力の強化を図ったDavid Wilson, ''Music of the Middle Ages'' p. 10.。英語やドイツ語の史料からは、グレゴリオ聖歌は北はスカンディナヴィア、アイスランド、フィンランドまで広まったことが窺えるHiley, ''Western Plainchant'' p. 604.。885年には、教皇ステファヌス2世 (ローマ教皇)|ステファヌス2世が教会スラヴ語を用いた典礼を禁止し、これによりポーランド、モラヴィア、スロヴァキア、オーストリアなどぁ
r4^$`!"ElJ}$N%+%H%j%C%/652q;YG[0h$G$bグレゴリオ聖歌が優勢となった。西方キリスト教世界の他の聖歌は、新しいグレゴリオ聖歌の強い圧迫をうけることとなった。カール大帝は父の方針を受け継ぎ、現地のガリア式の伝統を捨て、ローマ式の典礼を好んだ。9世紀には、ガリア典礼およびガリア聖歌は実質的には廃止されたが、これには地元の抵抗がないわけではなかったApel, ''Gregorian Chant'' p. 80.。イングランドではソールズベリー式典礼(サルム典礼)においてグレゴリオ聖歌がケルト聖歌を駆逐した。ベネヴェント聖歌については、1058年の教皇教令によって禁止されるまで、1世紀以上、グレゴリオ聖歌と共存した。モザラベ聖歌は、西ゴート族とムーア人の流入のなか生き残ったが、レコン\xA1
%-%9%?$K$h$j%9%Z%$%s$K%m!<%^$N;Y;}$rグレゴリオ聖歌との同化が進み、もとの音楽的形態をほとんど留めていない。アンブロジオ聖歌のみが、アンブロジウスの音楽家および宗教者としての権威のために、今日までミラノにて残存している。グレゴリオ聖歌は、やがて、ローマの固有の聖歌(今日では古ローマ聖歌と呼ばれる)にもとって代わるようになる。10世紀には、イタリアでは実質上、音楽の記譜はまったく行われておらず、ローマ教皇たちは、10世紀から11世紀にかけて、神聖ローマ皇帝からグレゴリオ聖歌を移入し続けた。例えば、クレドは神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ2世の要望で1014年にローマ典礼に追加されたものであるRichard Hoppin, ''Medieval Music'!
' p. 47.
。大聖グレゴリウスの伝説によって権威が高められたグレゴリオ聖歌は、ローマ固有の真正な聖歌とみなされるようになり、今日にまで至る。12世紀、13世紀には、グレゴリオ聖歌は西方キリスト教世界の他の聖歌を完全に凌ぎ、駆逐した。他の聖歌に関する後代の史料からは、聖歌をグレゴリオ聖歌的な教会旋法に組織する試みなど、グレゴリオ聖歌の影響が強まる様子を見ることができる。一方で、これらの失われた聖歌の伝統はグレゴリオ聖歌の中に取り込まれていったことが、様式の分析や歴史的分析によって明らかになってきている。例えば、聖金曜日のインプロペリアは、ガリア聖歌の伝統を残していると考えられていぁ
kCarl Parrish, "A Treasury of Early Music" pp. 8-9。(B


[ 初期の史料と後代の改訂 ]


現存する最古の楽譜史料は、9世紀後半のものである。それ以前は、聖歌は口頭で伝承されていた。多くの研究者が、記譜法の発達がヨーロッパ全土へ共通の聖歌が普及する要因となったと考えている。最初期の楽譜は、主にドイツのレーゲンスブルク、スイスのザンクト・ガレン修道院、フランスのラン (フランス)|ランおよびリモージュのサン・マルシャル修道院に残されている。グレゴリオ聖歌は、「堕落した」歌を「元の形」に糺すという名目で、しばしば改訂を加えられた。初期のグレゴリオ聖歌は、教会旋法の理論的構造に合致するように改変されている。1562年から3年にかけて、トリエント公会議によりセクエンツィアのほとんどが禁止された。ギデット(Guidette)の1582年発行の ''Directorium chori'' および1614年発行の ''Editio medicaea'' は、当時の美学的基準にあわせて、堕落し、問題があるとみなされた「粗野な部分」を徹\xA1
DlE*$K2~JQ$7$F$$$kApel, ''Gregorian Chant'' pp. 288-289.。1811年には、フランスの音楽学者アレクサンドル=エティエンヌ・ショロン(Alexandre-?tienne Choron)が、フランス革命中のカトリック教会の無力への過激な保守反動の一貫として、フランス的堕落を廃し、「純粋な」ローマのグレゴリオ聖歌へ回帰することを唱えたHiley, ''Western Plainchant'' p. 622.。19世紀末には、古い典礼書や音楽写本が調査され、校訂されるようになる。1871年、メディチ家のグレゴリオ聖歌写本が再版され、教皇ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世によって、唯一の公式な版と認定された。1889年には、これに対抗し、中世のもともとの旋律を追求した ''Pal?ographie musicale'' (音楽の古文書学)がフランスのサン・ピエール・ド・ソレーム修道院によって出版された。ソレーム修道院の復興聖歌は研究者には高\xA1
$/I>2A$5$l$?$,!"659DD#$K$O5qH]$5$l$?!# その後ソレーム修董
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N$O!X%j%Y%k!&%&%:%"%j%9!Y$K$^$H$a$i$l!"1903年に教皇レオ13世 (ローマ教皇)|レオ13世が没すると、その後継者ピウス10世 (ローマ教皇)|ピウス10世は即座にソレーム修道院の聖歌を権威あるものと認め、翌1904年には、ヴァチカン版のソレーム聖歌が認定された。しかしその後、ソレーム修道院の校訂に対して、研究者から疑義が呈されることになった。特に問題となったのは、問題の多いリズム解釈を強引に用いるために、様式を恣意的に改変していた点である。ソレーム版では、原本にはないフレーズ記号や、音符の長さを示す「ネウマ譜|エピセマ」や「モラ」の記号を挿入している一方で、原本にある、リズムや速度の加減などのアーティキュレーションを示す意味のある文字を取り除いている。このような校訂によって、ソレーム版の歴史的正当性は疑われるに至ったHiley, ''Western Plainchant'' p. 624-627.。ピウス10世は、1903年の教皇自発教令 ''Tra le sollicitudine'' によって、グァ
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の使用を命じ、信徒に対してミサ通常文を歌うことを推奨したが、固有文の歌唱は男性のみに限った。保守的なキリスト教コミュニティではこの伝統が守られているが、第2バチカン公会議にて、グレゴリオ聖歌の代わりに、それぞれの土地の現代の音楽などを用いることが公的に許可されたため、カトリック教会自体はもはやこの制限を維持していない。ただし、教皇庁では、依然としてグレゴリオ聖歌がカトリック教会の公的な音楽であり、讃美にもっともふさわしい音楽であるとしているThe Constitution on the Sacred Liturgy, Second Vatican Council



音楽的形態





[ 旋律の様式 ]


グレゴリオ聖歌は、言葉の音節(シラブル)あたりにいくつの異なる高さの音を与えるかによって3つの旋律様式に分けられる。「シラブル様式」(シラビック)は1シラブルに1音をあてる。「ネウマ様式」(ネウマティック)では、主に1シラブルに2、3音あて、メリスマ様式(メリスマティック)では、1シラブルに5、6音から60音以上にまで至るいくつもの音の連なりがあてられるHoppin, ''Medieval Music'' pp. 85-88.。また、グレゴリオ聖歌は旋律の型としては、レチタティーヴォと自由旋律の2つの分類にいれることができるApel, ''Gregorian Chant'' p. 203。もっとも単純な種類の旋律は「典礼文のレチタティーヴォ」である。レチタティーヴォ的な旋律は、朗誦音(リサイティング・トーン)と呼ばれる1つの基本となる音高を主として用い、他の高さの音は、インキピットや部分終止および完全\xA1
=*;_$NItJ,$K8=$l$k!#$3$&$$$C$?7A$rHoppin, ''Anthology of Medieval Music'' p. 11.
。典礼文のレチタティーヴォは、典礼中の独唱聖歌(アクセントゥス)によく見られ、例として、ミサでの集祷文や使徒書簡、福音書の詠誦や、聖務日課での詩篇詠誦をあげることができる。詩篇を詠誦する「詩篇聖歌」には、レチタティーヴォと自由旋律の両方がある。詩篇聖歌には、詩篇詠誦、交唱聖歌(アンティフォナ)、応唱聖歌(レスポンソリウム)が含まれるHoppin, ''Medieval Music'' p. 81.。詩篇詠誦では、詩篇の詩句が、単純で、定式的な音高で、繰り返しなく歌われる。一方、多くの詩篇聖歌は交唱と応唱であり、ここでは自由旋律が用いられ、複雑さもさまざまである。交唱聖歌は、入祭唱(イントロイトゥス)や聖体拝領唱(コンムニオ)などに用いられ、元来は2組の合唱隊が交互に歌い、一方が詩篇の詩句を、他方がアンテァ
#%U%)%J$H8F$P$l$k7+$jJV$7$N6g!J%j%U%l%$%s!K$r2N$&7A<0$G$"$k!#;!
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k$H$H$b$K;m6g$N?t$O8:$j!"DL>o$O1つの詩句と頌栄のみ、あるいは詩篇はまったく歌われないまでになった。だが、旋律に朗誦音が用いられる点には、交唱聖歌の原型が技巧を凝らしたレチタティーヴォにあることを示している。なお、キリエやグロリアなど、通常文の聖歌は、交唱様式をとることがしばしばあるが、交唱聖歌とはみなされない。応唱聖歌は、昇階曲(グラドゥアーレ)、 詠唱(トラクトゥス)、アレルヤ唱、奉献唱(オッフェルトリウム)や、聖務日課の応唱などに用いられ、元来は独唱による詩篇詩句の歌唱と、合唱による「応答句」が交互に歌われる。レスポンソリウムはしばしば、先行作品からさまざまな音型を転用、合成して作成され、この過程をセントニゼイションと呼んでいる。トラクトゥスでは応答句が失われているが、セントニゼイションの痕跡は強く残っている。グレゴリオ聖歌は、ローマ典礼のもとめる様々な機能を満たすために発展した。おおまかに言うと、典礼文のレチタティーヴォは、助祭や司祭による典礼文の詠誦に用いられた。交唱は、司祭の入\xA1
>l$d!"8%6b$N2s<}!"@;JL$5$l$?%Q%s$H$V$I$&'$O!"@;=qO/FI$d!"F|2]$KMQ$$$i$l$?Hoppin, ''Medieval Music'' p. 123.。詩篇に基づかない、ミサ通常文の歌唱やセクエンツィア(続唱)、賛美歌などは、元来は会衆の歌のために用いられたHoppin, ''Medieval Music'' p. 131.。これらの聖歌では、音楽の形式はおもにテキストの構造に依存している。セクエンツィアでは、対句ごとに同じ音型が用いられるし、賛美歌ではテキストが有節形式であることから、連ごとに同じシラブル様式の旋律が現れる。


[ 旋法 ]
初期の聖歌は、西洋音楽の大部分と同様に、全音階の使用を特徴としたと考えられている。旋法理論は主要な聖歌の作曲よりも後に成立し、出自をまったくことにする2つの伝統を融合させたものである。すなわち、古代ギリシアの伝統を受け継ぐ、純理論的な数値比率理論と、伝統的に培われてきたカントゥスの実践技法である。理論と実践の双方を扱った最初期の著作としては、9世紀に成立ぁ
7$?%`%8%+!&%(%s%-%j%"%G%#%9!J2;3ZJXMw!K$*$h$S%9%3%j%+!&%(%s%-%!
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9!JA0MN2;3Z$K3WL?$r$b$?$i$7$?!#%,%s%^%&%H$G$O!"@;2N$KMQ$$$i$l$k%T%C%A!J2;9b!K$O2;0h$N=E$J$k%X%/%5%3%k%I$KAH?%$5$l$k!#%X%/%5%3%k%I$N4p2;$H$7$F$O!"%O2;!J%J%A%e%i%k!&%X%/%5%3%k%I!"%O-ニ-ホ^ヘ-ト-イ)、ヘ音(変ロを使う、軟ヘクサコルド、ヘ-ト-イ^変ロ-ハ-ニ)、またはト音(ロを使う、硬ヘクサコルド、ト-イ-ロ^ハ-ニ-ホ)がある。変ロは臨時記号ではなく、ヘクサコルドの体系の必須要素とされている、一方、ヘクサコルドに含まれない音の使用はムジカ・フィクタとされた。グレゴリオ聖歌は、ビザンツ聖歌の8分類オクトエコスの影響を受けて、8つの旋法に分類されたWilson, ''Music of the Middle Ages'' p. 11.。各旋法は主音|終止音(フィナリス)、属音|支配音(ドミナント)および音域(アンビトゥス)が決まっている。フィナリスは曲の最後の音で、通常は旋律全体を通じて重要な音となる。ドミナントは、通勝
o@{N'$NCf$GO/kV2;$H$7$FMQ$$$i$l$k%T%C%A$G$"$k!#%"%s%S%H%%%9$O@!
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$$i$l$k%T%C%A$NHO0O$r<($9!#%U%#%J%j%9$,%"%s%S%H%%%9$NCf1{$K$"$k!"$b$7$/$O$4$/8B$i$l$?%"%s%S%H%%%9$7$+$b$?$J$$@{N'$O!VJQ3J@{K!!W$KJ,N`$5$l!"%U%#%J%j%9$,%"%s%S%H%%%9$N:GDc2;$G$"$j!"$+$D5つか6つ以上の高さの音を音域にもつ旋律は「正格旋法」に分類される。互いに対応する変格と正格旋法は、フィナリスは同じであるが、ドミナントは異なるHoppin, ''Medieval Music'' pp. 64-5.。旋法の名前は、古代ギリシャの旋法の誤解に基づくもので、中世には実際に使われることは稀であった。「ヒポ」の接頭辞は、変格旋法であることを示している。: 第1、第2旋法は、ニ音をフィナリスとする正格および変格旋法で、時にドリア旋法、ヒポドリア旋法と呼ばれる

: 第3、第4旋法は、ホ音をフィナリスとする正格および変格旋法で、時にフリギア旋法、ヒポフリギア旋法と呼ばれる

: 第5、第6旋法は、ヘ音をフィナリスとする正格および変格旋法で、時にリディア旋法、ヒポリディア旋法と呼ばれる

: 第7、第8旋法は、ト音をフィナリスとする正格および変格旋法で、時にミクソリディア旋法、ヒポミクソリディア旋法と呼ばれるイ、ロ、ハ音で終わる旋法を、時にエオリア旋法、ロクリア旋法、イオニア旋法と呼ぶことがあるが、これらは固有の旋法ではなく、同じヘクサコルドを使う旋法の移調とみなされる。グレゴリオ聖歌のピッチは絶対的には定まっていないため、実際の演奏ではもっとも歌いやすい音域で歌ってよい。一部のグレゴリオ聖歌は、旋法ごとに決まった音楽的定式があり、例えば交唱(アンティフォナ)と詩篇詩句の間の詩篇朗誦音(サルム・トーン)などにより、聖歌中の各部分間の移行を滑らかに行えるようになっている。Hoppin, ''Medieval Music'' p. 82.。すべてのグレゴリオ聖歌がグイードのヘクサコルドや、8つの旋法にぴったりはまるわけではない。例えぁ
P!"FC$K%I%$%D8l;KNA$N@;2N$K$O!"%X%/%5%3%k%I!&%7%9%F%`$K$U$/$^$l$J$$!"%[$H%X$N4V$G2;$N9b$5$rMI$i$9;X<($N$"$k%M%&%^Ih|ネウマがあるWilson, ''Music of the Middle Ages'' p. 22.。初期のグレゴリオ聖歌は、アンブロジオ聖歌や古ローマ聖歌と同じように、旋法を用いていなかったApel, ''Gregorian Chant'' p. 166-78 および Hiley, ''Western Plainchant'' p. 454.。旋法理論が広まるにつれて、特に12世紀のシトー会の改革によって、グレゴリオ聖歌は次第に旋法にあてはまるように改変された。フィナリスは変更され、旋律の音域は減らされ、メリスマが刈り込まれ、変ロ音が取り除かれ、そして歌詞の繰り返しが除かれたHiley, ''Western Plainchant'' pp. 608-10.。しかし、このようにして旋法が一貫性を持つようにしようとする試みにもかかわらず、一部の聖歌にはごく単純な旋法の規則までも無視するものがある(特ぁ
K@;BNGRNNkV!N%3%s%`%K%*!O!K!#Nc$($P!"%3%s%`%K%* ''Circuibo'!
' は(B4つの中世写本に、それぞれ違った旋法を用いて筆写されているApel, ''Gregorian Chant'' pp. 171-2.


[ 音楽語法 ]


グレゴリオ聖歌の音楽語法には、旋法以外にもいくつかの特徴的な点がある。旋律の動きは主に順次進行を取る。3度の跳躍はよくあり、それ以上の跳躍も、アンブロジオ聖歌やベネヴェント聖歌などよりはるかに多い。音の移動はオクターブではなく、7音目までしか到達しないことが多い。すなわち、例えばニ音からオクターブ上のニ音まで行くことは稀で、ニ-ヘ-ト-イ-ハのような形で、ニ音から7音上のハ音まで移動することがしばしば行われるApel, ''Gregorian Chant'' pp. 256-7.。また、例えばヘ-イ-ハのような、決まったピッチの連なりを用い、その周りに他の高さの音が引き寄せられるような旋律も多いWilson, ''Music of the Middle Ages'' p. 21.。各旋法には、よく使われるインキピットと終止(カデンツ)があるが、これは旋法理論だけでは説明できないものである。聖歌はしばしば、サブ・フレーズを組み合わせたり繰り返す複雑な内部構造を持つ。これは特に奉献唱や、キリエやアニュス・\xA1
%G%$$J$IC;$$%F%-%9%H$r7+$jJV$9@;2N!"%l%9%]%s%=%j%&%`|大応唱やグロリア、クレドなど、テキストの中に明確に分かれる部分を持つ聖歌に多いApel, ''Gregorian Chant'' pp. 258-9.。一部の聖歌は、旋律的に族関係にある。昇階曲(グラドゥアーレ)や 詠唱(トラクトゥス)を作る時には、一種の音楽的「文法」に従ったセントニゼイションによって音楽のフレーズが構築される。ある種のフレーズは聖歌の冒頭のみ、あるいは末尾のみに用いられ、ある種のフレーズは決まった組み合わせでのみ用いられ、このようにして例えば、昇階曲のグループである ''Iustus ut palma'' のように、音楽的に近親関係にある聖歌群が成立しているApel, ''Gregorian Chant'' pp. 344-63.。第3旋法の入祭唱の一部は類似した旋律をもち、上にあげた ''Loquetur Dominus'' もその一つである。第3旋法では、ハ音がドミナントとなるため、通常ならばハ音が朗誦音となるところ、これらの第3旋法の入祭唱では、ト音とハ音の両方を朗誦音とし、しばしば、この調性感を確立するために、ト音からハ音へ装飾を凝らしぁ
?D7Lv$+$i@;2N$,$O$8$^$kHiley, ''Western Plainchant'' p!
p. 110-1
13.
。同様の例は、他にも散見される。


[ 記譜法 ]


グレゴリオ聖歌の最初期の記譜史料は、「ネウマ譜|ネウマ」と呼ばれる記号を用いている。初期のネウマは、各音節(シラブル)の音高(ピッチ)の変化や長さを示すものの、各音の絶対的な音高や、各ネウマ間の相対的な音高の関係は示されていない(無音高ネウマ、アダイアステマ記譜法)。研究者の仮説では、この記譜法は手の動きによって音高を指示するカイロノミーや、ビザンツ聖歌の動機譜(エクフォネシス譜)、句読点、アクセント記号から発展したものとされるLevy, Kenneth: "Plainchant", Grove Music Online, ed. L. Macy (最終アクセス 20 January 2006), [http://www.grovemusic.com/shared/views/article.html?section=music.40099.2.3#music.40099.2.3]。後に、ネウマ間の相対的な音高の関係を示す音高ネウマ(ダイアステマ記譜法)が発明される。一貫した方法で相対的音高を示す方法ははじめ、11世紀前半に、フランスのアキテーヌ地方、中でもリモージュのサン・マルシャル修道院で開発された。それに対して、ドイツ語圏の\xA1
B?$/$G$O!"12世紀に至るまで無音高ネウマが使われ続けた。この他に、特定の音高(通常はハ音かヘ音)に一本の線を引く、線譜も発明された。また、段の最後において次の段の最初の音高を示す、カストス(custos)の記号や、テヌートを示す "t" など、アーティキュレーション、音の長さ、テンポなどを示す追加的記号も開発された。この他に、シェイカー (キリスト教) |シェイカー教徒の音楽に用いられるような、異なる音高にそれぞれ文字を割り当てて記譜する記譜法も用いられていた。』で用いられる、四角ネウマ。ここではキリエ・エレイソン(オルビス・ファクトール)の冒頭を示している。

13世紀には、グレゴリオ聖歌のネウマ譜は専ら、音部記号を伴う4本の線の上に「四角ネウマ」を配して記譜されるようになった(記事冒頭の ''Graduale Aboense'' の画像参照)。四角ネウマでは、1音節(シラブル)の中で上昇音型を取る数音の音群は、下から上に読む、四角を積み重ねた形で記譜され、下降音型を取る音群は、左から右に読む菱形で記譜される。1音節により多くの音が含まれる場合には、このようなネウマのかたまりを続け、左から右へ読んでいく。オリスクス(oriscus )、クィリスマ(quilisma)、およびリクェセント(liquescent)の各ネウマは、特別な歌唱法を示しているが、具体的にどのような技法なのかははっきりしていない。変ロ音が使われる時には、変ロ音を含むネウマのかたまりの左に「軟b」がおかれる(右の「キリエ」の譜参照)。必要な場合は、下に線の延びる「硬b」が本位ロ音を示す。現在の聖歌集は主にこの四角ネウマ譜を用いて記譜されている。



演奏





[ テクスチュア ]


聖歌は伝統的には男声に限られ、元来はミサや聖務日課の祈りにおいて、男性聖職者によって歌われていた。しかし、大都市を除いては聖職者の数は限られていたから、次第に世俗男性も合唱に加わるようになった。女子修道院(コンヴェント)では、女性も修業生活の一貫として、ミサ及び聖務日課で歌うことが認められていたが、聖歌隊に加わることは聖職者にのみ許される公的義務とされていたため、世俗女性がスコラ・カントルム (中世)|スコラ・カントルムなどの聖歌隊で歌うことは認められていなかったCarol Neuls-Bates, ''Women in Music'' p. 3.。聖歌は通常、斉唱(ユニゾン)で歌われたが、後には、聖歌に歌詞や音を追加するトロープスや、即興的にオクターブ、5度、4度(後には3度も)の和声を重ねるオルガヌムなどの技法が開発される。しかしトロープスもオルガヌムも、本来の聖歌の曲目に含まれるものではない。これの主要な例外としてはセクエンツィア(続唱)がある。セクエンツィアは、「ユルビス」と呼ばれるアレルヤ唱の引き伸ばされたメリスマ(alleluiaの最後のaを長くのばす)をトロ\xA1
!<%W%9$K$9$k$H$3$m$+$iH/E8$7$?$b$N$G$"$k!#$7$+$7!"%H%m!<%W%9$b%;%/%(%s%D%#%"$b!"%H%j%(%s%H8x2q5D$K$h$C$F$[$H$s$I6X;_$5$l$?!#%H%j%(%s%H8x2q5D$G$O!"I|3h:W!"%Z%s%F%3%9%F!"@;BN=KF|$*$h$S;`グレゴリオ聖歌の歌唱に、実際にどのような歌唱法が用いられていたのかはほとんどわかっていない。時には聖職者が歌い手に対して、もっと抑制的に、敬虔に歌うように要求していることから、しばしば高度に技巧的な演奏も行われていたことが窺われ、それは「ゆっくりとたゆたう癒しの音楽」という今日のグレゴリオ聖歌のステレオタイプ・イメージとはかなり異なっていたと推測される。音楽性の追求と敬神のあいだのせめぎ合いの歴史は古く、グレゴリオ聖歌に名を冠する教皇グレゴリウス1世 (ローマ教皇)|グレゴリウス1世自\xA1
?H$,!"@b65$h$j$b2N@<$NL%NO$K4p$E$$$F@;?&u!
$rHcH=$7
$F$$$kHiley, ''Western Plainchant'' p. 504.。しかし、修道会改革者として知られるクリュニーのオドー(10世紀前半のクリュニー修道院長)は、聖歌の知的、音楽的芸術性を称賛している。ドイツの修道院の一部では、今でも複合唱による本来的な交唱が行われている。しかし、一般的には、現在では交唱も、独唱者と合唱が交互に歌う、応唱の様式で演奏されている。この習慣は、おそらく中世から行われていたようであるApel, ''Gregorian Chant'' p. 197.。中世に開発されたもう一つの技法として、冒頭の句を独唱者が歌い、フレーズの残りを全体合唱で歌う形式がある。この方法により、独唱者によって聖歌のピッチを定め、合唱の入りを合図することが容易になった。


[ リズム ]


中世記譜法ではリズムが明確でないため、グレゴリオ聖歌のリズムについては、研究者の間で見解が分かれている。例えばプレッスス(pressus)などのネウマは音の繰り返しを示すが、これは音の延長や反響(リパーカッション)を示すものかもしれない。13世紀には、四角ネウマが普及し、多くの聖歌において、ほぼネウマで割り当てられた音の長さにしたがって各音が歌われていたようだが、13世紀の音楽理論家モラヴィアのヒエロニムスは、例えば最終の音は長く伸ばすなど、特定の音における例外について言及しているHiley, "Chant," ''Performance Practice: Music before 1600'' p. 44.。1614年の ''Editio medicaea'' などの後の改訂版では、メリスマの旋律上のアクセントが、シラブルのアクセントと合致するように書き換えられているApel, ''Gregorian Chant'' p. 289.。この美的意識は、19世紀末に、ワグナーやポティエ、モッケロー等によって聖歌復興運動が起きるまで、強く影響力を保っていた。19!
世紀末の聖歌復興運動には大きく2つの陣営があった。1つはワグナー(Wagner)、ジャマース(Jammers)、リップハルト(Lipphardt)等の派閥で、聖歌に拍子をあてはめることを主張していたが、ただしどのようにあてはめるかについては意見の一致を見ていなかった。もう一方の派閥は、ポティエ(Pothier)やモッケロー(Mocquereau)が中心となり、各音符の音価は基本的に同じとして自由なリズムで歌い、歌詞または音楽的に強調するべきところでは適宜音を伸ばすことを主張した。ソレーム修道院版のグレゴリオ聖歌現代譜は、この解釈に基づいている。モッケローは、旋律を2音もしくは3音のフレーズに分割し、各フレーズの冒頭に「拍」に似た「イクトゥス」(ictus、強音)をおき、これを小さな垂直線記号で注した。これらの旋律の基本単位は、カイロノミー(手振り)によって表現されるより大きなフレーズへとまとめられるApel, ''Gregorian Chant'' p. 127.。この方法論は20世紀前半には后
-$/N.9T$7!"%8%c%9%F%#%s!&%o!<%I$NMD;y2;3Z650i%W%m%0%i%`$K$h$C$!
F$bIa5Z$
7$?$,!"Bh2バチカン公会議において聖歌の典礼における役割が弱められ、新しい世代の研究者によってモッケローのリズム理論が根本的に否定されるに至って、次第に使われなくなってきているDyer, Joseph: "Roman Catholic Church Music", Section VI.1, Grove Music Online ed. L. Macy (最終アクセス 28 June 2006), [http://www.grovemusic.com]。現代の一般的なグレゴリオ聖歌の演奏では、主に美的意識の観点から、拍や周期的な拍子は用いない方法が好まれている。William P. Mahrt, "Chant," ''A Performer's Guide to Medieval Music'' p. 18.。強勢はテキストによって、フレージングは旋律の輪郭によって定められる。ソレーム式の音の延長は依然、広く行われているが、絶対的な規範ではなくなっている。



典礼での使用


グレゴリオ聖歌は聖務日課における定時課および、ミサの典礼で歌われる。司教、司祭、助祭によって「アクセントゥス・エクレジアスティクス」と呼ばれるテキストが詠唱されるが、大部分は単一の朗誦音が用いられ、各文の決まった位置で簡単な旋律の形が用いられる。より複雑な聖歌は、専門訓練を受けた独唱者および聖歌隊によって歌われる。聖歌集としてもっとも網羅的なのは『リベル・ウズアリス』であり、トリエント・ミサで用いられる聖歌と聖務日課でもっとも一般的に用いられる聖歌が収録されている。修道院の外では、よりコンパクトな『グラドゥアーレ・ロマヌム』の使用がより一般的である。


[ ミサの固有文 ]


入祭唱、昇階唱、アレルヤ唱、詠唱、続唱、奉献唱、聖体拝領唱は、祭日によって異なるテキストを用いることからミサの固有文と呼ばれ、聖歌も祭日ごとに異なるものを用いる。入祭唱(イントロイトゥス)は、祭司の行列の時に用いられる、交唱聖歌である。典型的には、アンティフォナ、詩篇詩句、アンティフォナの繰り返し、頌栄、アンティフォナの繰り返し、という形をとる。朗誦音が旋律構造を支配することが多い。昇階曲|昇階唱(グラドゥアーレ)は、使徒書の朗読に続く日課を詠唱する、応唱聖歌である。昇階唱の多くはセントニゼイションによって作られ、既存のフレーズがパッチワークのように継ぎ合わされて聖歌の旋律が生み出され、音楽的に近親関係にある旋律群が成立している。アレルヤ唱は、alleluia の最後の a を長くのばす、「ユルビス」という明るいメリスマでよく知られる。異なるテキストのアレルヤ唱にも本質的に同じ旋律が使われることがよくあり、このようにして既存の旋律を新しいアレルヤのテキストに用いることを、「アダプテーション」と呼んでいる。アレルヤ唱は、四旬節などの悔い改めの期間には歌われず、代わりに帖
L>o$O;mJS$r%F%-%9%H$H$9$k1S>'!J%H%i%/%H%%%9!K$,2N$o$l$k!#%H%i%/%H%%%9$O>:3,>'F1MM!"%;%s%H%K%<%$%7%g%s$K$h$k$b$N$,B?$$!#%;%/%(%s%D%#%"| 続唱(セクエンツィア )は対句形式の詩の詠唱である。セクエンツィアのテキストの多くは典礼文に含まれないため、グレゴリオ聖歌の本来の曲目ではないが、非常によく知られた「ヴィクティマエ・パスカリ・ラウデス」、「ヴェニ・サンクテ・スピリトゥス」などの聖歌が含まれている。9世紀から10世紀初頭に活躍した、初期のセクエンツィア作者であるザンクト・ガレン修道院のノトケル・バルブルスは、セクエンツィアはアレルヤ唱のユルビスに詩句を追加することから発展したと述べているRichard Crocker, ''The Early Medieval Sequence'' pp. 1-2.。奉献唱(オッフェルトリウム )は奉献の間に歌われる。かつては極めて冗長な連構造を持っていたが、12世紀頃には連の使用は廃れた。聖体拝領唱(コンムニオ )は聖餐の聖体拝領の間に歌われる。旋律はしばしば調性的に不亜
BDj$G!"K\0L%m2;$HJQ%m2;$N4V$r9T$-Mh$9$k!#$3$&$$$C$?%3%s%`%K%*$!
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2008年07月20日

オーケストラ[古代西洋音楽]

オーケストラ!古代西洋音楽





古代西洋音楽(こだいせいようおんがく)とは6世紀以前の西洋音楽。楽譜が残されていないか、解読方法が知られていないため実際のところは明確でない。



古代ギリシアの音楽



  • 古代ギリシアでは詩の朗読や劇の上演に際して音楽が演奏されたと考えられている。また、神を祭る儀式の場でも用いられた。劇に付随する音楽(歌唱)というアイディアは、後にイタリアフィレンツェにおける古代ギリシアの音楽のルネッサンス、すなわちオペラ誕生のモデルとなった。* 音楽理論がある程度確立していたと考えられる。今日の音楽に関する用語はその多くを当時のギリシア語に負う。


  • ピュタゴラスは音楽と数学は宇宙の秩序に通じると考え、正律音調を発見した。また竪琴をひいて精神を病む人に聞かせたといい、音楽療法の元祖とも考えられる。* プラトンは『国家』3巻において、混合リディア調や高音リディア調は悲しみを帯びており、イオニア調やリュディア調は柔弱だったり、酒宴にふさわしく、ドリス調とプリュギア調は戦士にふさわしい、などと論じている。* ギリシア悲劇の合唱団について、フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェは『悲劇の誕生(音楽の精髄からの悲劇の誕生)』で論じている。* 『アポロ賛歌』『ムーサ賛歌』『ネメシス賛歌』など楽譜の一部が伝えられるが解読方法は確立していない。グレゴリオ・パニアグワらによる復元演奏の試みと録音もあるが、演奏者の想像の域を出ていない。* 当時の絵画から、キタラー(竪琴)、アウロス(縦笛)、パンパイプなどが使われていたことがわかる。* 紀元前8世紀頃になるとポリスが成立、発展し貴族による共和制のもと、種々の文芸が復興していった。ホメロスやヘシオドスらの叙事詩が盛んであり、その伴奏としてはフォルミンクス\xA1
    $H8F$P$l$k4弦の小型の竪琴が用いられた。アウロスはまだ異国的な楽器として一般的にはあまり用いられず、またサルピンクス(トランペット)も同様で、紀元前7世紀以降にこれらの楽器は普及していくことになる。この時期の音楽のあり方として「詩」と「音楽」がほとんど同一視されたことがあげられ、しばしば振り付け(舞踏)を伴った。祭儀的な音楽は「政治的なイベント」や「コンクール」へと次第に変容していき、その競技会においてはキタロディア(キタラー伴奏の賛歌)が競技目的のジャンルとして初期に確立した。元来は王宮の娯楽でもあった「競技会」は、宗教的なパフォーマンスから祭儀的な性格が取り除かれていき、代わりに「音楽的」「美的」な価値基準を確立していくことになる。* 紀元前7〜6世紀になると僭主政治が横行するが、その僭主の宮廷では芸術家らが熱心な保護を受けた。サッフォーやピンダロスらが叙情詩を盛んにつくり、悲劇も台頭してくる。アウロスが一般化し、キタラーは7弦化される。特にアウロスはその神秘的で情緒的な音色ゆえに、デュオニソス神の祭儀には不可欠な楽器となる。僭主政治の開始ぁ
    ,CY$l$?%"%F%M$G$b%Q%s%"%F%J%$%":W$,@9Bg$K9T$o$l$k$h$&$K$J$j!"
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    2008年07月19日

    2008年07月18日

    2008年07月17日

    2008年07月16日

    オーケストラ[器楽]

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    2008年07月15日

    2008年07月14日

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